ぷよねこ減量日記 since 2016

結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味をもつのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがいのないその時間 である。 (星野道夫)

『灘一 上撰原酒』と『 松 竹 梅 』

図書館で南木佳士さんの自選エッセイ集を借り直し、本棚から吉本ばななの「人生の旅3」と

さだまさしの酒のエッセイ「酒の渚」(幻冬舎)を選んで借りた。

さだまさしは酒のイメージがまったく無かった。

読んでみたら、徹夜して吞んだり、バーボンのボトルを一人で一本空けたりと、大酒吞みだった。

今はなき大阪のホテルプラザ、バー「マルコポーロ」の常連だったようだ。

 

冒頭は「灘一  上撰原酒」と題された一編だ。

灘一? あの近所の古材屋の?

僕にとって灘一(なだいち)は、古材を売っている蔵を改造した店の名前、

そして、その蔵がかつて松竹梅酒造であったことも知っていた。

有名な清酒 「松竹梅」は伏見の酒で、灘の産ではない。

たしか宝酒造という大手酒造会社の銘柄のはず。

もともと灘の銘柄だったものが移転して? あるいは銘柄を売って伏見の酒蔵が作るようになった?
そんな話を聞いたような、あるいは自分で想像したような。

とにかく謎ではあった。

 

 

「酒の渚」にはこう書いてあった。

さだまさしと懇意にしている大阪の新聞記者との会話を引く。

全国ブランドである清酒「松竹梅」は伏見の宝酒造の産である。

「実は灘に『松竹梅酒造』いうのが存在するんですわ」

「へ?!じゃあ?」

「僕はどうも《松竹梅》いう酒は、元々はその蔵で造ってたと睨んでんねん。

ま、事実確認でけへんから、まあ、眉唾話、と思てもええけど、いや、そんな話はええねん。

実はその『松竹梅酒造』で造ってる酒がめちゃ旨いねん。

吞みたくないか?」

「吞みたいがな、それは」

「ほな、送る」

翌週我が家に木の箱に入って届いたのが、名酒《灘一》上撰原酒の四合瓶が六本。

アルコール度数19.3度。「五百万石」などの有名な酒米を使用して灘自慢の宮水でこしらえた

実に品の良い、どっしりした美酒である。

「香りは良いし、飲み口がしっかりしてるのに品が良い。こんな美味い酒が無名とは驚いたねどうも」

僕らはあっという間に四合瓶を3本空けた。

(さだまさし「酒の渚」より)

 

がぜん吞みたくなった。

1.「灘一 上撰原酒」 どこで買えるのか?

これが最優先。

2. 次に《松竹梅》がいかにして宝酒造の銘柄になったか?

この理由、いきさつが知りたい。

ネットで調べてみた。

松竹梅の歴史|松竹梅|清酒|商品紹介|宝酒造株式会社

『清酒之精華松竹梅』の誕生は大正9(1920)年、灘、魚崎が発祥の地。当社が清酒松竹梅の商標を引き継ぎ、製造を始めたのは昭和8(1933)年です。松竹梅は古来中国において「歳寒三友」と称され、祝賀・瑞祥の意を表します。清酒松竹梅はその品質と独自の慶祝路線で、現在まで飛躍的な成長を遂げてきました。

灘、魚崎が発祥の地と記している。

 

一方、商標を譲った松竹梅酒造は…

灘一|お料理相性を選ばないさっぱりとした日本酒|松竹梅酒造

戦前の松竹梅酒造は故井上信次郎氏によって大正初期に設立され、扱う清酒はまぼろしの銘酒とも言われていました。昭和初期には醸造石数は9,000石にも達し、質、量ともに屈指の酒造会社でした。しかし第二次大戦の戦火拡大によって企業整理が進み、さらに軍需工場となり清酒の醸造は中止に至りました。
戦後、創業者である野田博は松竹梅酒造の復活に寝食を忘れ情熱を傾けた結果、昭和25年新たに松竹梅酒造を設立、ここに「灘一」の蔵元としての松竹梅酒造株式会社が再発足しました。同時に故井上信次郎氏は弊社の最高技術顧問として後進の指導育成にあたられ、醸造秘術を技術者に伝授されました。その醸造技術は脈々と受け継がれていきました。その後、阪神淡路大震災により、酒造蔵が全壊したため、酒造業は縮小せざるを得なくなりましたが、小規模であるからこそできることもあると考え、個性に磨きをかけ、灘五郷の一隅を照らす、個性豊かな酒造メーカーでありたいと考えています。

もともとの銘柄が《松竹梅》とは記していない。

「扱う清酒はまぼろしの銘酒とも言われていました」とあるだけ。

 

1. 「灘一」はJR西宮駅前のフレンテの一階で買える。

2. 宝酒造が商標を引き継いだというのは事実だが、それが「松竹梅酒造」であったかは分からない。

おそらく「酒の渚」に登場する新聞記者と同様、元々はその蔵で造ってたと睨んでんねん と推測するしかない。

 

自宅から自転車で5分のとこにある「灘一」に寄ってみた。

かつては松竹梅酒造の敷地だったのだろうが、今は半分くらいは駐車場になっている。

右の白壁の蔵、今は古材屋として営業している。

この建物で「灘一」を造っているのだろうか?
工場らしき施設には思えないが…。

 

後日、西宮駅のフレンテで購入。

松竹梅酒造の酒「灘一 原酒」をミニボトルに詰めた。

たまたま3日間の断酒明けで嬉しいので車内でテイスティングしてみた。

「灘一 上撰原酒」ラベルは小磯良平の画だとのこと。

さだまさしの酒コラム「酒の渚」で激賞していたので知らずとハードルを上げていた。

でも、醸造用アルコール添加の普通酒(1200円)だし、それほどでもないだろうと…

一口飲んでみた。

旨い!

どっしりした男酒、旨口でもあり、これはイケます。

濃さが嬉しい。

新潟の原酒「菊水 ふなくち」と同系統の味わい。

四合瓶 1200円、もう一本買っておこう。    [2024/2/27]

 

追記です。

ネットにこんな記述がありました。

戦前、戦後、震災と何度も苦難を乗り越えた歴史があるのですね。

いまは酒造りはしておらず、瓶詰めのみをしているようです。

そういえば「灘一」のラベルには製造業者ではなく加工業者とありました。

でも、まあ、美味しいお酒ならどこで造っていてもいいです。

もしかして…あそこでは? とか想像するのも愉しい。

https://koyama89.tsuchigumo.com/nadaiti.html

引用させてもらいます。

今回の酒蔵さんは、あの"松竹梅"の・・・?
今からご説明致します。
こちらの酒蔵さんは、1884(M17)年10月、(初代頭首?)井上信次郎氏によって、魚崎郷で個人経営の酒造業として創業、代表銘柄は"鶏鼓"、"桔梗政宗"(いずれも何と読む?)。
1924(T13)年春には松竹梅酒造となり、トロリとした喉越しの濃厚酒である"松竹梅"(とその銘柄)が誕生。
1933(S08)、経営困難に陥った井上氏を支援する為、宝酒造が支援をし松竹梅酒造株式会社を設立、一時醸造石数9,000石にも達する、量、質共に屈指の酒造会社になる。
しかし、1939(S14)年~1945(S20)年の第二次大戦の諸影響によって清酒の醸造は中止に。
1947(S22)、当時の創業者野田博が尽力し宝酒造グループから独立、新たに松竹梅酒造株式会社を設立、しかし"松竹梅"の銘柄(と製法?)は宝酒造に残る。
それは兎も角、松竹梅酒造株式会社の再復活はなされ、同時に井上信次郎氏は最高技術顧問として後進の指導育成にあたり、醸造秘術を技術者に伝授する。
1995(平成07)年阪神・淡路大震災にて被災し酒蔵は全壊、醸造休止に追い込まれ生産規模の縮小を余儀なくされるものの、現在は醸造を他の蔵(どこでしょう?)に委託し瓶詰めのみを自社で行いと今も酒造りを続けておられる、とこんな感じの経緯であります。
整理すれば"灘一"は松竹梅酒造が、そして宝酒造が"松竹梅"を、今はそれぞれ別々に造られていると云う事です。
とは云え、昔井上信次郎氏が造ったとろり濃厚の"松竹梅"のノウハウは既に宝酒造も持っているので、両者の味の系統は同じ路線である事は充分考えられます。
これは今後宝酒造の"松竹梅"を手に入れて検証する必要があるでしょうね。
「えーっ、"松竹梅"を買うの~?」<女房のツッコミ>
ゴホン! 以上、"松竹梅"問題のレポートでした。