2月、第二日曜日は朝から雨の一日でした。
ニュースデスクの代行として午後イチに出勤。
オリンピック期間であり、プロ野球キャンプ期間でもあり、関西では特にニュースはなし。
待機時間にWEBメディアの構成作業を一本、ほぼ何もせずに代行勤務は終わる。
それでも一仕事終わると飲みたくなる。
日曜日、雨の京橋、「明けごころ」のカウンターに立つ。
冷たい日本酒を一杯、じゃこ天(160円)と名物手羽元唐揚げ一本(150円)。
堀江翔太のスクラム論を読みながら20分ほど過ごす。
ときどきアルミサッシ越しの雨にけむる街を見る。
西宮駅からは雨用のキャップをかぶって自転車で帰宅。
夜になり冷蔵庫の中みたいに空気が冷えてきた。
夕食はきのうの残りのチキンカレーに目玉焼をのせて。
あした、前期高齢者になる。
同年輩の仲間たちは今の時代をどう感じて、どう暮らしているのだろう。
毎日読むブログ「還暦の向こう側の住人」のモーさんは僕とほぼ同年輩。
今日の記事では糖尿病のお母さまの介護の日々を振り返っている。
読みながら、自分の幸運に感謝する。
と同時に、世界は突然変わるかもしれない、という強迫観念にも襲われる。
おかしい。
自分はズルをしているのではないか。
いつか請求書が届けられるかもしれない。
幸運の前借りをしてたのではないか。
池澤夏樹の短編小説にこんな描写があったのをかつて日記に書き写した。
まだ三十代のころ、上高地でテント泊をしたときの手書きのルーズリーフの日記。
主人公は思う。
「だからさ、不安なんだよ。そのわれわれの運のよさが。辛いことが少なすぎる。何かインチキをしているような気がするよ。こういう生活全部を誰か知らない人にひょいと預けられて、自分のものじゃないのに楽しんじゃって、預けた人はいつになっても帰ってこない。だんだん自分のものみたいな気がしてくる。」(「眠る人々」)
いま、この作品をパラパラと読み返す。主人公は思う。
この不安はいつまでも味わった方がいいだろうと思う。毎日毎日、明るく晴れた野原を手を振って散歩しているような、風も気持ちよく吹いて、足もとには花がたくさん咲いて、背中のリュックにはあいしいサンドイッチ、そういう日々がなぜ自分に与えられたのか、それが嬉しくてしかたがないと思いながら…
この短編が書かれたのは1991年、その頃の日本、その頃の世界を思い出す。
まだ若かった自分の当時を思い出す。
いま、不安はある。
僕かヒロか、どちらかが倒れたら…。
世界は一変する。
クレジット会社から引き落とし請求が届く。
モーさんのように毎日の散歩やバードウォッチングのような愉しみを見つけられるだろうか?
楽しむ余裕を持てるだろうか。
この機会に池澤夏樹の小説を再読しようと思った。
食後、しばらく、最近つくったLINEグループ 家庭内独酌の会 でトーク。
ヨドバシで買ってきた菊水の黒缶の残りとスパークリング菊水を飲む。
「居酒屋しまかぜ」「居酒屋ひのとり」「居酒屋サンダーバード」などを夢想しながら。
複数でそれをやると単なる飲み会になってしまうことに気がつく。
「居酒屋新幹線」なる吞み鉄は1人でやることが大原則なのだ。
というところで落ちついて終了。
スピードスケート女子500mを見ながら日付変更線を越える。
またひとつ歳をとる。