吞んだ日も日本酒一合と赤ワイングラス一杯、もう一日が日本酒一合ちょっと。
ほどよく体の負担にならない程度の量で乗り切った。
その反動というわけでもないが今日はちょっと飲みすぎた。
一軒目でグラスビール、日本酒が一合。二軒目は日本酒が一合半。
ほろ酔いで三軒目まで行ってしまいハイボールとレモンハイ。
日本酒換算して3合半くらいかな。
でも、まあ、美味しく呑めたので良し。
眼鏡堂氏が来阪、大阪城ランの予定がランステが月曜定休。
ならば、と大阪城内をめぐり、真田丸跡までウォーキングしましょうとなる。
氏は池波正太郎の「真田太平記」、僕もたまたま司馬遼太郎の「城塞」を読んでいるところ。
昨日もオンデマンドで20年前の大河「葵 徳川三代」の「冬の陣」と「夏の陣」を見たばかりで、
この大阪城の壮絶壮大な歴史物語を脳内再生可能な状態で現場検証して歩くのは楽しい。
おお、ここが淀殿と秀頼が自害した山里丸か。
梅林は片桐且元の屋敷があったところだったのか。
大手門を守る櫓を見ては、信長が「あれを落としたら千貫ほうびをとらす」と言った櫓であると
受け売りの云われを披露したり。
先月、大阪城ランしたときにも書いたが、この城はケタ違いだ。
地方の小さな城下町を歩くのが好きになって、いろいろと出かけては城址や天守を見た。
(石垣だけ残る城址も無常感が漂い、また小さな天守や櫓も風情がある)
大阪の城の巨大さはそれらと比較にもならない。
当たり前に見ていたものが実は世界でも類を見ない巨大城郭だったのだ。
インバウンド最盛期に人々が押し寄せていたが、歴史観光資源としての価値に気がつかなかった。
こんな巨大な城は世界でも珍しいのだ。
姫路城や松江城や彦根城は地方分権の城、大阪城は強大な中央集権国家の象徴なのだ。
司馬遼太郎が書いている。
「城がある。西欧の城塞をはるかにしのぐ、と宣教師達によって賛嘆されたその巨城は、
生駒の山腹から十分に遠望することができる。家康はすでに天下人になった時期、
自然の感情としてこの野と海と城市を、手づかみしたくなるほどにほしかったにちがいない。
(司馬遼太郎「城塞」)
巨城を歩いた。
寄せる敵が呆気にとられるほどの高い城壁。
満々と水をたたえる堀、見上げざるを得ない絢爛豪華な天守。
青屋門を入ると鷹が3羽、ふくろうが一羽、金属製の手すりにとまっていた。
鷹匠だろうか、素人っぽくない男が二人側にいる。
観光客がスマホで写真を撮っていた。
梅林は盛りを少し過ぎていたが、花の香りが園内に漂っていた。
季節は早春から仲春に移る頃か。
「城塞」の中に徳川家康について面白い記述があった。
大阪冬の陣の前、家康はすでに七十を越えていた。庶民の噂では健康が不安視されていた。
ところが本人は意気軒昂であったと書かれている。
ところが、家康の健康状態は、わるくない。五年前の関ヶ原のころは、体重がどんどん増えてついに自分で褌も締められず、毎朝、侍女が前後からかれの褌を締めるという滑稽な状態にまでなったが、その後家康は懸命に痩せようとした。痩せることが長命のためにいいということを家康が知っていたということは、保険思想史からみて、家康は世界史的な存在かもしれない。この人物は十七世紀の人間でありながら、運動が保健のもとであるということを体験的に知っており、しかもそれがかれの日々の生活規律までなっていた。
側近が家康の言葉を書き留めたという書物がある。
鷹狩り(鷹野)が健康に良い理由を問われ家康は言った。
「そのわけは、風寒炎暑もいとわず山野を走り回るために筋骨労働し、その結果、手足が齢にしては軽やかになる。また夜は疲労して快寝(快眠)するから、閨房にもおのずから遠ざかる」
徳川家康はダイエット、フィットネス、アンチエイジングの元祖だったのかもしれない。
上町筋を南へ下る。
途中、難波宮跡、大村益次郎の大きな石碑がある。
疲れたので真田丸跡には寄らず空堀商店街へ。
この近くで今をときめく大坂なおみが生まれた。
空堀商店街は道の両サイドが空堀で今も高低差がある。
思えば関ヶ原などより、長く激しい戦闘が繰り広げられたのが大阪の市街地だ。
ま、そもそも誰かが(広告代理店か?)こしらえてた標語みたいなものなんでしょうけど。
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