2020/08/01 Sat. 「いつまでも続くわけではない」

8月が始まる。

オリンピックも、高校野球も、花火大会もない8月。

今まで生きてきた中でどの8月とも違う8月。

コロナって何? そんなものどこにあるの? って感じで過ごしたいなというのが本音。

でも、昨日の新規感染者数は全国で1323人。

6月半ばまでは沈静化してた感染が7月になって時差でじわじわと増えてきた。

これってどれくらいの精度で予測されてたんだろう?

この増加は予測されていて、これは想定内なのだろうか?

自然災害ではなくリスク回避の失敗じゃないのかな?

人災。

スポーツ選手に例えると怪我が治りきってないのに全力疾走してしまった、みたいな。

これってまた長引くってことですよね。

この怪我については誰もよくわかってなくて、一度ゆるめてみたいとわからなかったのかも。

何ごとも終わる。

でも、いったいどんな収束になるんだろう。

きっぱりとわかりやすくは終わらない予感。

いつのまにか、もうええんでない?的な。

予想される最悪の結末って何だろう?

 

2020年、自身の年間プランがコロナに揺れ動いている。

3月〜5月、自宅での断捨離はコロナ自粛のおかげもあってスムースに進んだ。

明けて6月〜7月は流れが滞った。

膠着状態です。

8月はまた動かそうと思う。

旅行や外出などもイベントとかも特になし。

半自粛生活みたいな8月になりそう。

 

ガス痛予兆は収まる。

梅雨明けして暑いので日が沈む頃から走り始める。

いつもより長く、60分くらいは走ろう。

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午後7時前から走り始める。六甲はいま最高峰の少し西あたりに日が沈む。

久々に走ると周辺の風景が少しずつ変わっていることに気がつく。

土曜日だからだろうか、御前浜に自粛の頃の人出が戻っている。

西宮浜のサッカーコートの横、かつて艇庫があったあたりに大きな砂の山がある。

何かの施設を作るのだろうけど、その砂山に雨が降り浸蝕され、川や谷が出来ているのが面白い。

富士や浅間山や鳥海山みたいな独立峰のミニチュアを見ているよう。

沿岸に沢山の流木が流れ着いている。

雨の影響だろうか。

周回コースをゆっくり走った。

じんわり汗が出る。

これが気持ちいい。

きのうガス痛予兆があったときに迷った。

寝こむか? 運動するか?

この年齢になると守りに入る。

運動したらケロっと治ることもある。

茂木健一郎がそんな事象のことを書いているとあるブログにあった。

 

相変わらず朝起きたとき、身体が鉛のように重い。地球の重力が変化してしまったかのようだ。どうにも調子悪りィんだよなあ、とブツブツ呟きながら走りに出た。ジョギングというスポーツのいいところは、走り出しにどれほど調子が悪くても、ある程度の時間続けていると、フッと身も心も軽くなって気分爽快になることだ。これは日々の生活や文章を書くこととよく似ている。長い書き下ろしなどを始めると(実は今もそうなのだけど)、自分の書いているものがちっとも面白く思えず、「つまんねぇ男だなあ、オレ」とか、「そもそもコレ、書き終ンのかよ」と絶望的になる。でも、今まで途中で放り出してしまった本は一冊もないし、ランニング・ハイならぬライティング・ハイ的な状況は、いつか必ず訪れる。大切なのは──これはやはりジョガーの脳科学者・茂木健一郎さんの言葉で、知ってからは座右の銘のひとつにしているのだけど──「この状態がいつまでも続くわけではないと考えること」だと自分に言い聞かす。 (「毎日jogjob日記」より)

 

同じブログにこんな記述もある。

昨日昼近くまで寝たせいか昨夜はほとんど眠れず、朝4時半にあきらめて起き出し、夜明けと共にjogに出た。曇り空の下、136分。少し前に「どうにも仕事の調子が出ない」とこの日記に書いた。要は「やる気」が出ないのですね。すると脳科学者の茂木健一郎さんが「note」に書かれたこんな一文を眼にした。曰く『行動するためには、「やる気」は必要ない。』。リンクしつつ、短いものなので以下全文引用させて頂く。<なにかを始めるのに「やる気」は必要ない。「やる気」は、それがないことを口実に行動しないときの言い訳に使われるだけである。毎日繰り返す、仕事や勉強、運動は、「やる気」があってもなくても、淡々と実行するのみである。「やる気」を要求すると、かえって敷居が高くなって行動しにくくなる。だから、行動するためには、「やる気」は必要ない。

なるほど。確かに我が身を振り返ってみれば、ジョギングやジムは毎回「さあ、走ろう」とか、「ジムに行くぞー」とか明るく前向きにヤル気満々で出かけていくわけではない。そういう気持ちになるのは多くて月に1度か2度だ。しかも、だからと言ってヤル気の無い日は上手く走れないとか、筋トレを途中でやめて帰って来てしまうなんてことはない。今朝もほとんど寝てないので、「ふあぁ、眠いなあ」「でも眼が覚めちゃったから走るか」くらいのどちらかというとネガティヴな気持ちだった。にも関わらず136分とけっこう長めに、それなりに軽快に走ってしまった。

 そう考えると例えば僕の場合特に、取材なんてものは「さあ、ガンバロー!」と元気に出かけていったためしはほとんど、ない。大抵は「緊張するなあ」とか「上手くいかなかったらどうしよう」とか気に病みながらノロノロ出かけて行って、結果「ああ、面白かった」とか、「貴重なお話を聞けた」ということになる。原稿書きに関して言えば、「ヤル気」がある無いとつべこべ言わずにまずは座ってiMacに向かうこと、取り敢えずキーボードを叩くこと──といったことでしょうか。茂木先生の言う<行動するためには、「やる気」は必要ない。>、これからの人生で座右の銘にしようと思いました。(「毎日jogjob日記」より)

 

最近、更新を愉しみにしているブログがある。

東良美季というライターの「毎日JogJob日記」だ。

毎日jogjob日誌 by東良美季

毎日更新、1958年生まれだから僕と同世代。

読んでると東京の小金井公園の近くに一人暮らししてることがわかる。

同世代なのにジョギングを一日130分とかしてて驚く。

かつては猫と暮らしていて、時々その思い出がウエットに綴られる。

なんでもない日々をおそらく350字〜500字くらいの適量でアップされていく。

同世代ということもあって、毎日夜になって更新されるのを楽しみにしている。

なぜだろう?と思った。

古本で東良氏の本「猫の神様」を入手して読み始めると止まらない。

なぜだろう?

面白いのではあるが、なぜだろう?

「猫の神様」の解説がライター時代の仲間だった故 勝谷誠彦で、こう書いてあった。

名文家の東良美季を尊敬していた… と。

そうだ。

このブログは文章が上手いのだ。

だからつい引きこまれてしまう。

勝谷誠彦が書いている。

「猫の神様」の中でも東良の身近な人々が亡くなっていく。

なぜ彼のまわりでは、まだ人生の多くの時間が約束されているはずの人々が死ぬのか。

奇妙な感覚に包まれたことを私は覚えている。実は、私もそうなのだ。

解説文はこのあとメメントモリという言葉に触れ、世間が人の死から目をそれしていることに触れ、

私も東良も目を大きく目をあけて死を見つめることを選んだのだ。

「猫の神様」は二匹の愛猫を送った全編これ看取りの文学と言えるだろう。

この文庫版「猫の神様」は2012年初版で、勝谷誠彦も6年後の2018年に若くして他界する。

 

この「ぷよねこ減量日記」も「毎日JogJob日記」みたいに簡潔に日々を表現したい。

写真は一枚、文章は400字程度、これが理想なのだがダラダラと長くなってしまう。

ちなみにこのブログの東良さん、お父さんは名脇役だった戸浦六宏です。

 

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朝、プールへ行ってる間にM田便が届く、ワニ珈琲も入っていた。

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御前浜、土曜日の午後7時。

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この大きな砂山はどんな施設になるのだろう?

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打ち上げられた流木、嵐のような雨の産物か。