梅雨の晴れ間は今日までだそう。
しばらく走ってなかったので定番のコースを走った。
御前浜、4月、5月の頃のにぎわいは消えて、誰もいない。
僕ら地元のジョガーにとっては嬉しい環境が戻ってきた。
気持ちいい海からの風が吹いている。
マスクはポケットに入れて走る。
すれ違った数人のジョガーは誰もマスクしていなかった。
マスクジョグ、皇居外周や駒沢公園ならわかるけど、そんなとこで今は走りたくない。
午後から出社、編集のチェックはすぐに終わる。
夕方、駅前ビルのミルクホールでA部氏と合流する。
きょうは休肝日らしいが夫婦ともども破るならOKらしい。
レモンチューハイを飲みながら身の回りに起きた気に食わないことを吐露する。
with コロナ、after コロナ で「新時代が来る」という論調が気に入らない。
A部氏も僕も同意見だ。
いろんな時代を生きてきた自負もある。
3ヶ月くらいで新しい時代の扉が開くものかと思う、思いたい、先はわからないけど。
ニューノーマルという物言いにも嫌悪感がある。
出来れば歓迎したくないのが本音だ。
言葉そのものが胡散臭くて、こういうのはいつか消えていくと思う。
朝日新聞に高橋源一郎氏が書いてたように、いつか忘れて元に戻るのだと思う。
架空のペスト流行を描いた現代文学の古典、カミュの『ペスト』では、襲って来た時と同じように突然、ペストの禍(わざわい)は去ってゆく。
「暗い港から、公式の祝賀の最初の花火が上った。全市は、長いかすかな歓呼をもってそれに答えた。コタールもタルーも、リウーが愛し、そして失った男たち、女たちも、すべて、死んだ者も罪を犯した者も、忘れられていた。爺(じい)さんのいったとおりである――人々は相変らず同じようだった」
パオロ・ジョルダーノは本のあとがきのタイトルを「コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」としてこう書いた。
「パンデミックが僕らの文明をレントゲンにかけているところだ。数々の真実が浮かび上がりつつあるが、そのいずれも流行の終焉とともに消えてなくなることだろう。もしも、僕らが今すぐそれを記憶に留めぬ限りは」
ぼくたちは、まだ「流行」のただなかにいて、かつてないほど、考える時間を与えられている。けれども、間違いなく、そのほとんどを忘れてゆくだろう。大きな戦争や事件に対してそうだったように。そのことだけは忘れまい。
『ペスト』の結末で著者は、姿を消したペスト菌は滅びたのではなく、ただ眠っているだけだ、と書いた。そして、ぼくたちは知っているはずなのだと。
「おそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠(ねずみ)どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうということを」
「彼ら」は間違いなく、またやって来る。人間たちが、「彼ら」に負けない社会を作っているかどうかを試すために。
(「忘れるだろう、でもコロナは再び来る」高橋源一郎)
「忘れるだろう、でもコロナは再び来る」高橋源一郎「忘れるだろう、でもコロナは再び来る」高橋源一郎「忘れるだろう、でもコロナは再び来る」高橋源一郎「忘れるだろう、でもコロナは再び来る」高橋源一郎「忘れるだろう、でもコロナは再び来る」高橋源一郎
文学の出来ることの一つが心の柱になることだと思う。
どんな厄災も、幸か不幸か、僕らは忘れてしまう。
僕らは忘れてしまうという事実だけは最低限 記憶に留めておけるし、記憶しておこうと思う。
こんなうすっぺらい新時代なんて信じたくない。
ただ、コロナなしで時代が進行してたよりも少し前倒しで動くのだろうなという感覚はある。
そもそも時代は東京オリンピックを含めて問題山積、面倒なことをただ先送りにしてきたのだ。
ミルクホールのあとラ・ソウへ、Nさんも合流。
5月末の十三と同じく白と赤のボトルを一本ずつ空ける。