









カトリック教会も、河川敷は今も変わってない。
上の絵に添えられていた文章が実にいい。
書き写しておこう。
画友庫田君が私の家に泊まった晩、大雨が降った。
その翌朝、晴れて行く山を見て、同君は「美しいなあ」と、
しばし、うなったままで、見とれていたことがある。
白い水蒸気が、あとからあとから。沸き起こり、それが雲散霧消するにつれて
奥から、黒い山々が次ぎ次ぎに、現れてくる様は全く壮観で、
この外来者をもてなすには、この上ない、風景であった。
こういう劇的な天候の変化があった場合は勿論のことだが、
安穏平静な日でも、芦屋付近から見る六甲風景は、
形に色々な変化があって、面白い。
わずかな距離の間に、よくもこれだけの変化があるものだと、いつも感心する。
東は、兜山(カブトヤマ)の性格ある半円形に始まり、苦楽園と六麓荘の
人家の点綴する人工と自然の調和、それから西に襞の多い男性的な斜面、
その左前方に突出する三角形のかたまり、それから西へ保久良神社に至る女性的な、
やわらかい曲線の重なり、となっている。
この複雑なコンポジションに、朝夕の時間的な投影と、
四季による色感の変化を加味すると、千変万化、あくことを知らぬ、六甲風景が現出する。
斜陽に、くっきりと山襞を浮かびあがらせている量感に満ちた山容は、
美しいというより悠久さえ感じさせる。
「猟師は山を見ない」というが、芦屋の人もこんな美しい山が、あまり手近にあるので
不感症になっているように思われる。
その証拠に、どの家も北側には申し訳的な窓があるばかりであり、
たまに大きな廊下のある家でも、雨戸がしまっている場合が多い。
概して芦屋人は海を見下ろすことは知っているが、
山を見ることは知らぬように思えるのである。
こんないい山を背に持っている地方には、北側の窓を有効に利用した
型破りな家が増えてもいいはずだと、いつも思う次第である。
(山崎隆夫「芦屋の山」アシヤ美術第一巻第一号 1949年8月)

思えるのである。こんないい山を背に持っている地方には、北側の窓を有効に利用した
型破りな家が増えてもいいはずだと、いつも思う次第である。」

本展は、国画会を中心に活躍した洋画家でありながら、寿屋(現・サントリーホールディングス株式会社)などで広告の仕事にも手腕を発揮した、山崎隆(1905-1991)に焦点をあてる展覧会です。
大阪に生まれた山崎隆夫は幼少期より神戸に暮らし、画家を目指しつつも神戸高等商業学校(現・神戸大学)に入学します。在学中、後に版画家となる同窓の前田藤四郎、画家の井上覺造らと美術グループ・青猫社を結成し、同時に芦屋在住の洋画家・小出楢重に師事、阪神間モダニズムのただ中で洋画を学びます。卒業後は三和銀行に勤めながら、1931 年に小出が没すると画家の林重義に学び、独立美術協会展や文展への出品を重ね、1943 年に国画会会員となります。戦後は芦屋市美術協会の結成や現代美術懇談会(ゲンビ)などにも参加しながら洋画家として活躍しました。
そのようななか銀行員としての山崎は、彼の画壇での活躍に注目した頭取によって三和銀行の広報担当に抜擢されます。各銀行が広報を強化した戦後の時代、独自の美意識を軸に山崎は、菅井汲、吉原治良ら芸術家仲間やアルバイトに来ていた柳原良平によるイラスト、人気女優のポートレイトを採用して数々の広告を制作します。このような山崎の仕事は評判を呼び、1954 年に山崎は寿屋専務・佐治敬三に
招かれ、柳原を伴って寿屋へ入社、宣伝部⾧に就任しました。同年に入社していたピーライターで作家の開高健のほか、アートディレクターの坂根進、写真家の杉木直也ら自ら集めた宣伝部メンバーを山崎は「ほん機嫌よう遊びなはれ」という掛け声のもとで率いて、トリスウイスキーの広告や PR 誌『洋酒天国』の発行といった広告活動を展開しました。当時の日本人には馴染みの薄かった洋酒文化を、モダンな楽しみとして普及させようとする山崎の仕事が、寿屋独自の宣伝スタイルを築いていくのでした。
1964 年には株式会社サン・アドを創立し社⾧に就任。晩年は 1962 年に居を構えた神奈川県茅ヶ崎市にて、1991 年に逝去するまで意欲的に絵画制作を続けました。
山崎の生誕 120 年の節目に開催する本展は、彼の仕事の全貌を「絵画」「広告」の方向から展観する