このブログを読んだのと、ラジオで燃え殻さんがこの作家の「水たまりで息をする」という小説、(突然風呂に入れなくなった夫の話)が面白いと言ってるのを聞いて、久々に新刊で買った。
芥川賞受賞作だから読んだらすぐにフリマで売れるだろうという目論見。
二谷という男、芦川と押尾という女性が二人。
読みながら、芦川はあいつだな、押尾はこいつだな、と勝手に身の回りの人を充てて読んだ。
「二谷さん、わたしと一緒に、芦川さんにいじわるしませんか」
心をざわつかせる、仕事+食べもの+恋愛小説。
職場でそこそこうまくやっている二谷と、皆が守りたくなる存在で料理上手な芦川と、仕事ができてがんばり屋の押尾。
ままならない微妙な人間関係を「食べること」を通して描く傑作。
と講談社のホームページに紹介されている。
二谷目線のパートは三人称なのに、押尾目線は一人称、芦川目線のパートはなし。
芦川が何を考えてるか最後まで不明なのがストレスがあった。
芦川の内面を語らせなかったのは意図があったのか、あるいは語らせるに値しなかったのか?
食べものについての小説は多いが、これは、食べるものなんてどーでもいいから、って小説。
主人公のひとり二谷は最初から最後までそう思っていて、途中で改心したりしない。
そういうブレないとこ面白いなとおも思ったけど、物語は退屈で底意地が悪い空気感
この流れをどう盛り上げ畳むのかな?って思ってるうちに読み終わった。
題名から小野寺史宣みたいなハートウォーミングな小説をイメージしてた。
帯を見たら…「心のざわつきが止まらない。再考に不穏な傑作職場小説!」とあるじゃないか。(笑)
でも、作者は何を描きたかったんだろ? 最後まで分からなかった。
これを150頁読むくらいなら、応仁の乱以降、荒れ放題の都の片隅で人を殺めることを厭わない夜盗の少年が、いかにして乱世の梟雄、稀代の悪党 松永久秀となったかを描いた物語「じんかん」を読み進めていた方がよかったかなとさえ思う。
と思いつつ、ふと考える。
これって小説の面白さはさておき、けっこう大事なことを伝えているのでは?と。
僕は食べたり飲んだりすることに愉しみや生きがいさえも持ってしまう人間だけど、
多様性と言う視点で考えたら、そうじゃない人も同じくらいいるのだと気づく。
同調はもちろん出来ないけど、存在は曖昧に認めざるを得ない。(笑)
手の込んだ料理に時間と労力をかけるより、本を読んだり、ゲームをやったりする方
自分にとって善だと思う人も認めなさい、ってことかも。
おいしい鮨を食べに金沢まで鈍行列車で行く人間とは相容れないだろう。
情報ニュース番組でキャスターが言う。
「お待たせしました!ここからはスポーツです!」と朗らかに言うけど、
その瞬間、「待ってねえよ」とチャンネルを変える人が絶対にいるのだ。
ブログでレビューを書いた人はこんなことを書いている。
「世の中の「進歩」によって、多様な生き方がみとめられ、「おひとりさま」でも生きやすくはなったし、「弱者」「生きるのがきつい人」も声をあげられるようになりました。そのこと自体は、「良いこと」だとは思うのです。でも、僕自身もこうしてネットに書いていて、それは「自分の苦しさを言葉や文章にするのがうまい人」が有利な社会になった、というだけなのかもしれないな、と後ろめたい気持ちになることがあるのです。本当に苦しんでいる人たちは「言葉」を持たないのではないか。あるいは、「言葉」に頼ろうとするから、自分を苦しめているのだろうか。」(琥珀色の戯れ言 より)
こんなふうに僕らは現代を生きている。
なーんて思った。小説そのものは面白くなかったけど、こういう思いを抱くことは悪くない。
関係ないけど作者は高瀬隼子さん。
はやぶさと書いてじゅんこと読むのですね。