ぷよねこ減量日記 since 2016

結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味をもつのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがいのないその時間 である。 (星野道夫)

2022/06/15 (水) 頑張って現状維持という現実

きょうは午前中にテロップ原稿を仕上げて、午後イチからポスプロ編集。

朝起きたら綿のような疲労は脱けてて一安心。

よもや血糖値がめちゃ上がってたり、肝臓や腎臓が病んでたりはしないかと心配した。

綿疲れの翌朝、リクエストしたわけではないけどお粥でした。ありがと。

 

何度も書いたことだが、65歳からの “飲まない人生” という選択をまた考えてしまう。

このブログの人の決断を尊敬する。

酒は大好きなので、長年呑み続けてきた。
父が鹿児島県出身で、私には薩摩隼人の血が流れているということもあって、
芋焼酎をこよなく愛し(それにビールも)、
芋焼酎とビールの晩酌は毎日欠かしたことがなかった。
〈煙草はやめることはできても、酒はやめることはできない!〉
と思っていた。
だが、60歳を過ぎ、人生の残り時間を考えるようになってからは、
〈酒を呑んでいる時間さえ、もったいない……〉
と思うようになった。
年齢もあろうが、酒を呑むと、すぐ眠くなる。
なにかをする意欲がなくなる。
酔って心地よくなり、気持ちよく眠れることが、酒の効用であろうが、
〈人生の残り時間を、そのことの繰り返しに使ってよいものか……〉
と考えるようになった。
死ぬまでに読みたい本は山ほどある。
死ぬまでに見たい映画も山ほどある。
しかも、それらは、新作が毎日誕生しているのである。
時間はいくらあっても足りないのだ。
人生の残り時間が少なくなってきている今、
〈呑気に酒など呑んでいる場合ではない!〉
と思うようになり、
62歳の12月に、ついに禁酒に踏み切った。
以来、3年間、一滴の酒も呑んでいない。

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町田康もアルコールを断ったはずだ。

「酒のない人生は淋しくないですか?」

「人生はもともと淋しいものです。」

この人は自ら大酒飲みを称する人なので僕らとはまた次元が違うのかもしれない。

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一日二合ベース、飲むときは4合くらい、少ないときは缶ビール一本ペースの僕だが、

飲んでしまったあとの読書も、映画も、もちろん運動も、何もやる気が起きないこの怠さは

ときどき残り少ない人生を無駄にしてしまっていると感じることも多い。

要は節度のような気もするし、いったん飲んでしまうと…そういう問題ではない気もする。

飲んでしまって無駄にするのも人生じゃないか、という声も聞こえる。

飲むことそのものが楽しいならそれもいいと思う。

問題は習慣的になること。

飲みたいな、飲むとしあわせな気分になるな、と確信があるときはいい。

飲めばよし。

でも、毎日飲むことが習慣になってきて、さほど飲みたくないときに飲んでしまうことがある。

そういうときは美味しくもないのに身体はアルコールを分解しなきゃならない。

それで眠くなったり、ぐったりと疲れたりする。

なんか損した気分になる。

それは避けたい。

飲まない人生という選択をしないのわかってて時々想像する。

一ヶ月とか、三ヶ月とか止めてみる。

そんな実験、そんなジタバタしてみたい。

でも、今のところ、惰性飲みをしないよう、連敗しないことを意識するくらいかな。

2連敗まで。

3連敗したら3連勝する。

つまり五分の星をめざす。

 

きょうポスプロで編集したタイトルバック、言うまでもなく その若さが眩しい。

 

なんて、朝にそんなことを思っていた。

午後イチで編集スタジオ入りしたのはいいが…しだいに腹が張ってきた。

プチボーマン発症!

3月末と今月始めに続き、なぜかポスプロでボーマンになる。

なんかあるのか?

当然ながら、図らずも今日は断酒。

綿疲れからは脱したが……ボーマンになった。

つまりは身体の衰えを認めざるを得ない。

60代になって禁酒した人のブログにこんなことが書いてあった。

六十になるとガクっとくる。

六十五になるとガクガクっとくる。

認めたくはないが、認めざるを得ない。

ガクガクってきてます。

年齢的に自分のちょっと先を生きている人のブログはためになりますね。

覚悟はしておけ、ということでしょうね。

いやあ、書かれていることが実感としてよくわかります。

*ガクガクっとくる という下りは後半です。

60代半ばの私にとっては、いろんな意味で「現状維持」自体が難しくなっている。
とくに、体力面では、「現状維持」は目指すべき目標にさえなっている。
60歳を過ぎると、体力は極端に落ちてくる。
まだ、山岳会に所属していた52~53歳の頃、
65歳を過ぎた会員の男性に、
「60歳を過ぎると、やはり体力は落ちてきますか?」
と訊いたことがある。
その人は、

60歳になったときに「ガクッ」とくる。
65歳になると「ガクガクッ」とくる。

と笑いながら答えたのだが、
今、私には、それが実感として解る。
確かに、60歳のときに「ガクッ」ときて、
65歳の今、「ガクガクッ」ときているのだ。(笑)
この体力の低下は、普段、体を動かしている人にしか分らない。
普段、何もしていない人に訊いても、
「体力の低下は感じられない」
と答える人が多い。
なぜなら、何もしていないから(比較するものがないので)感じられないのだ。
たとえば、ある山に休憩を取らずに一気に2時間で登ることができた人がいるとする。
だが、ある年齢から一気に登ることができなくなり、
歩行時間も、2時間半、3時間とかかるようになってくる。
否が応でも体力低下を実感させられるのだ。
なので、体力が低下してくれば、なんとか現状を維持しようと努力する。
今の私が、そういう状態なので、
もはや「昇格」は望めず、「現状維持」のために、日々努力しているのである。
だが、普段、運動をしない人は、
体力低下が感じられず、ある日突然、体が動かなくなっていることに気づき愕然とする。
90歳で亡くなった私の母親が、70代後半くらいからであったろうか、
「何故こうなってしもうたかね~」(なぜ、こんなになってしまったのかね~)
と何度も呟いていたのを思い出す。

定年退職後や、遅くに山登りを始めた人で、
「いやいや、私は日々進化していますよ」
と言う人もいるが、
その人たちは、そもそもスタートの基準値が低いので、進化しているように見えるだけで、
進化している訳ではない。
ある程度の年齢になれば、それは自ずと解る。
永遠に進化し続けることはできないし、
やがて「現状維持」がやっとになり、
その後、後退が始まり、
最後には、体が動かなくなる。
そう考えると、
「現状維持」がいかに大変なものかが判るし、
難しいものかも判る。
年老いた者にとって、「現状維持」が後退だなんてとんでもないことで、
物凄い努力なくして「現状維持」はないのである。

65歳を過ぎると、
体調の良い日と悪い日がはっきり分れるようになり、
体調の悪い日が段々と増えていく。
腰が痛かったり、膝が痛かったり、首が痛かったり、
日々、体のどこかが痛んでいる。
昔、お年寄りたちが、
「体の節々が痛い」
と言っていたが、
それを実感しているのが今現在だ。
まだ日常生活に支障をきたすような段階ではなく、
周囲の人々からは、
「○○さんはいつも元気ですね~」
と言われているし、
表面的には元気に見えているようで、
私自身も深刻には考えていない。
ただ、“体調の悪い日”は、
〈なぜそうなったのか?〉
と原因を考え、
ストレッチや山歩きなどで改善するようにしている。
だから、“体調の悪い日”は、“自分の体へ危険を知らせるシグナル”と捉え、
ポジティブに対処している。
65歳を過ぎると、
体調の良い日ばかりではよくないのだ。
体調の悪い日があってこそ、
人生の大事なものに気づかせてくれるのだし、
慢心にならずに日々努力することを悟らせてくれるのだ。

そう僕ら六十代からは人生の川は逆流になってくる。

というか体力が落ちたので、若いときは何でも無かった流れが逆流に感じるのだ。

それなりに頑張って泳いでようやく現状維持なのだ。