快晴、でも寝起きの体が重い。
昨日、寝たのが2時前だった。
寝る前に缶チューハイ(本搾り冬柑)を一缶飲んでしまった。
今週のテーマの一つが “ちゃんと就寝 ” 、これは先週も、先々週も決意はしていた。
なのに、いつも夜になるとグズグズして、日付変更線を越え、さらにダラダラ時を過ごす。
達成率が5割くらいなのは朝が遅れてペースがつかめないことに原因がある。
やっぱりその前の就寝に問題があるのは明か。
余命3ヶ月システムは残り2週間余り。
良き朝、グッドモーニングを迎えて締めたい。
きょうからの最重点テーマとしよう。
早春の日曜日。
ラグビートップリーグの試合を見に長居のヤンマーフィールドへ行く。
動画も撮らず、記事も書かないので取材ではなく記者席で観戦です。
NTTドコモが強豪パナソニックと対戦する。
お荷物だったドコモが今シーズンはここまで3連勝中。
オールブラックスのTJペレナラが入ってチームが変わった。
数字だけではわからないゲーム運びと強さを体感してみたかった。
試合後のニュース対応はがもしかしてあるかも、だったけど解かれて自由の身。
せっかく長居まで来たのだからと冥土旅リストの四天王寺へ行ってみた。
聖徳太子によって開かれた日本最古レベルの寺院。(いまはほとんどが再建)
法隆寺より建立時期は古い。
このあたりはその昔、すぐに海岸だった。
上町台地の南、海に沈む夕陽が美しかっただろう。
夕陽が丘という地名はこの美しい夕陽に由来している。
四天王寺のwikiにある鎌倉時代以降の記述が凄い。
隙あらば、戦乱、地震、雷で焼かれ、昭和に入っては二度の台風で倒壊、凄まじい。
康安元年(1361年)には金堂が地震で倒壊し、後に復興したが、応仁の乱の際には大内政弘によって放火されている。
天正4年(1576年)5月には織田信長による大坂本願寺攻め、いわゆる石山合戦のうちの天王寺の戦いにより、織田軍に火を付けられて全焼している。その上、寺領を全て没収されている。
天正12年(1584年)には金堂が建立された。文禄3年(1594年)から豊臣秀吉によって復興が行われ、単層の金堂が重層に改築され、ほかの堂舎も再建された。慶長5年(1600年)には豊臣秀頼によって大和国額安寺から五重塔が移築され、4代目の五重塔としている。また、庚申堂なども再建されている。翌慶長6年(1601年)には秀頼によって千石が寄進されている。
しかし、慶長19年(1614年)大坂冬の陣で焼失する。そして、元和9年(1623年)に将軍徳川秀忠によって5代目五重塔や伽藍が再建され、その他の堂も江戸幕府の援助で再建されたが、享和元年(1801年)の落雷で五重塔や金堂を始めとして境内の東半分が全焼した。
文化10年に再建された伽藍は昭和期まで残っていたが、1934年(昭和9年)9月21日の室戸台風で6代目五重塔が全壊。中門側に倒れたため中門もそのあおりで倒壊、金堂も大被害を受けた。五重塔は1940年(昭和15年)に7代目が再建されるが、1945年(昭和20年)3月13日・14日に行われた第1回大阪大空襲で国宝東大門や庚申堂の他、中心伽藍もろとも焼失した。7代目五重塔はわずか5年の命であった。
1946年(昭和21年)に天台宗から独立して和宗を創設し、総本山となった。
1950年(昭和25年)9月3日、ジェーン台風により新たな金堂が崩壊する。逃げ遅れた参詣者2人が下敷きとなり1人が死亡している。この金堂は、18世紀に六時堂の北に建築された食堂を戦後に移築したものであった。収蔵されていた仏像は無傷のまま回収された[15]。
現存の中心伽藍は1957年(昭和32年)から再建にかかり1963年(昭和38年)に完成したもので、五重塔はこれで8代目となる。鉄筋コンクリート造であるが、飛鳥建築の様式を再現したものである。
1972年(昭和47年)6月23日、祈祷所「萬燈院」が火災に遭う。建物は椎寺にあった薬師堂を戦後に移築したもの。建物内にあった十一面観音像などは消火の放水で濡れたものの無事[16]。
2020年(令和2年)4月8日、大阪市が新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、閉鎖を決めた。期間は6月8日までである。同寺を閉鎖するのは創建以来初めてのことである[17]。
天王寺に戻り、昭和というか、闇市風の面影を残すエリアへ寄る。
前に一度だけ行った立ち飲み「種いち」のあるあたりだ。
いまは裏天王寺と呼ばれているらしい。
空堀の人気店「そのだ食堂」と「台風飯店」が出店していた。
「そのだ」は立ち飲み。
思わず立ち寄ってしまう。
あとは写真日記で。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━・━━━━━━━━━━━━━━━━━━━