できることの少ない日は、少なくなにかをする (「ボールのようなことば。」より)
それはそれでいいのだけれど、毎日がそうだと困る。
なにしろ残り時間だって少ない。
あと9年で古希だもの。
思えば、海外へ一人旅してるときって1日1ミッションだよなあ。
今日は絵はがきを書いて切手を買って投函する、みたいな。
その頃、自分の先(未来)は茫洋として無限大だったのだろうな。
無限大だった。
あるとき、景色が一変した。
アニメーションのように突然、道が狭まって、無数にあった分かれ道の門が閉ざされ、
あとはしょぼくれた一本道だけが残され、僕は立ち尽くしていた。
そんなビジュアルが瞼に浮かぶ。
19時5分、西の空が怪しげなまでに焼けた。
太陽を追いかけるように東から台風が来るという。
逆走台風でびわ湖の鳥人間コンテスト2日目は中止になった。
Cafe Field でえべっさんブレンド夏を買ったらアイス珈琲のサービス。
久々に美味しいアイス珈琲(ハンドドリップ)を飲む。
えべっさんブレンド夏のパッケージです。
ブレンドなのにケニアのみ?
夕餉はおこぜの唐揚げ。
新聞にあったレシピでレモンパスタ。
こちらも手作りのマンゴープリン。
スポーツカメラマンの近藤篤さんがブログに書いてた。
サッカーを好きになったのはちょっと遅くて中学二年生の時だ。
それからまずスーパースターになることに憧れ、次に外国でプロサッカー選手になることに憧れ、
でも全然そんなことは夢のまた夢で、じゃあせめて地元の工業高校に進学してサッカーをやろうと
思っていたら、担任の先生に「お前、今の成績だと工業にも行けんぞ」とダメ出しをくらい、
本気で勉強したら意外にも地元の進学校に入学してしまい、大学はスペイン語学科に進み、
その後適当に時間を潰していたらいつのまにかカメラマンになり現在に至っている。
でもまさか自分の写真がW杯中継のオープニング映像になる日が来るとは、
夢にも思っていなかった。
ちゃんとこの30年ほど良い写真を積み重ねてきた結果だと、素直に喜びたい。
小学校6年のとき、メキシコ五輪の加藤沢男さんらの活躍を見た。
自分もオリンピックに出たいと思った僕は、小学校に布団をもちこみ、
砂場に敷いて、大車輪の練習をして、独学で出来るようになった。
母親は学校に呼び出され注意を受けた。
中学へ進むも体操部はなく、いやいや軟式テニス部で3年を過ごした。
当時は町中に体操クラブなんてなかった。
高校へ進学してようやく体操部に入ることが出来た。
吊り輪やあん馬や跳馬や平行棒や鉄棒、みんな揃っていた。
楽しくて毎日練習した。
一年の間に3度も大怪我した。
夏に鉄棒から落ちて脳しんとう、秋口に平行棒から落ちてアゴを切って何針も縫った。
そのたびに復活し、秋の地区大会の直前、ゆかの練習をしているときに側宙で落下、
当時はマットなんてなくてバスケットやバレーボールをする板床だった。
左手を複雑骨折、試合は断念した。
母校は地区大会を勝ち抜いて県大会へ。
僕も応援に行った。
全国レベルの中京商業(現 中京大中京)の凄さに驚愕した。
一年で3度も大怪我するような奴はいつか死ぬか車椅子になる。
そう言われ、熱もさめ、体操部をやめた。
近藤さんではないが、結局僕はオリンピック選手にはなれなかったけど、
シドニー、アテネとオリンピックの体操中継を担当することが出来た。
アテネで日本男子は金メダルを奪還した。
小学校の砂場に布団を敷いていた僕が、まさかオリンピックの体操に関われるとは。
近藤カメラマンといっしょだ。
素直に喜びたい。